JALの新型機・Airbus A350が国内線で就航して、いよいよ半年を迎えようとしています。そこでA350をテーマに、空の旅を愛するミステリー作家・八木圭一さんに短編小説を書いていただきました。
北海道の不動産王と呼ばれる男に財産贈与を希望した美人親娘はかつて深い仲にあった女性とその子供だという。妻が探偵・明智剛に親娘の調査と札幌までの同行を依頼しますが……。空を舞台にしたショートミステリーを、しばしお楽しみください。

「探偵明智、謎の美人親娘と乗る初めてのファーストクラス」

 羽田空港第1ターミナルの北ウイングには何度かきたことがある。クレジットカードで入れるラウンジも何度か使った。だが、ここはまるで別世界だ。
 私立探偵の明智剛は、初めて足を踏み入れたダイヤモンド・プレミア ラウンジで、緊張感を隠せずにいた。場違い感を出さないよう、威厳を保たなければならない。フリーのビールを飲みたい気分もぐっと我慢だ。
 この後、7時半発、新千歳空港行きのJAL503便に乗る。ファーストクラスも人生初めての経験だ。大手から独立し、品川で探偵社を立ち上げて早々、まさかこんな美味しい依頼が舞い込むとは――。

画像1: 「探偵明智、謎の美人親娘と乗る初めてのファーストクラス」

「お願いします。彼女たちから目を離さないでください」
 間隔が空いた隣の席から依頼人の部下である山本友恵が小声で呟いたので、明智は顎を引いた。
 視線の先には、窓際の席で滑走路を見つめる美しい親娘がいる。ベージュの上品なワンピースを着た母親は白河玲子、36歳。現役のモデルだけあり、背が高くて色白の肌も美しく、実年齢よりも随分と若く見える。一方、うさぎのぬいぐるみを抱えた娘の玲美は7歳だ。かわいらしいリュックを背負ったまま飛行機に目を張り付かせている。

 玲子のスーツケースは人質というわけではないが、明智が預かっている。イタリア製ロンカートのピンクで40歳の男が持つには違和感がある。
 突然、玲美が振り向いたので、明智は慌ててコーヒーカップに手を伸ばした。どうやら我々のことは敵だと思っているようだ。だが、かわいいからと言って手綱を緩めるわけにはいかない。
 必ず、依頼人のもとに無事送り届けてみせる――。
 決して難しいミッションではない。親娘二人を札幌のレストランまで連れて行けばいいだけなのだ。ここまでくればあとはもう飛行機に乗せるだけ。しかも、粋な計いで用意されたのは最新機の快適すぎるファーストクラスだ。

 依頼人は、札幌でいくつものホテルやビルを所有する木村不動産の女社長、木村真由美だ。前社長であり夫の木村祐介は長らく病床に伏している。57歳だが、その身体は肺がんに蝕まれていて先は長くないだろう。そんな祐介が生前に財産の一部を白河親子に贈与すると言いだした。玲子とはかつて深い仲にあって、玲美は祐介との間にできた子供かもしれないのだという。玲子が祐介に要求してきて、争う気力もなく、あっさり受け入れようとした。
 それを聞いた真由美から明智に依頼があり、身辺調査とともに、白河親娘を札幌に連れてくるよう依頼されたというわけだ。

 札幌円山にある高級フレンチの個室は12時半から木村の名前で予約が入っている。親娘を迎え撃つのは木村真由美と顧問弁護士だ。明智が調べた限り、玲美が祐介の子供である証拠はない。港区元麻布にある高級マンションも名義こそ玲子のものだが、別の男性が買ったものだ。玲子の背後には、何人もの男の影があった。出してきたDNA鑑定書は怪しく、札幌で再度鑑定すればいいが知ったことではない。
 今日、円山まで連れて行けば、明智のミッションはコンプリートだ。ススキノで、美味い刺身をつまみに一杯やろうか。

 明智はシャケと梅、2種類のおにぎりを味噌汁とともにあっという間に平らげた。いつも食べているコンビニのおにぎりとは比にならないほど具材のクオリティが高い。さらに、メゾンカイザーのパンを取りに行こうか悩ましい。
「山本さんは、朝食を食べないのですか。美味しいですよ」
 明るめの髪の色とは不釣り合いな黒いスーツを身にまとった山本がため息をついて首を横に振った。眼鏡の縁を右手で抑える。
「社長のもとに送り届けるまで、安心できませんから」
 明智は唇を噛み締めて頷いた。真由美からは「油断しないで」と、何度も釘を刺されている。最初は札幌に行くことに難色を示してきた玲子を「相手はただ冷静な対話を望んでいます」ということで説得した。

 山本がカルティエの腕時計に目をやった。そろそろだ。
 白河親娘のもとに歩み寄る。すぐに玲子も気づいて洒落たコートを羽織り、帽子をかぶると動き出した。ラウンジを抜ける。少しだけ距離を置いた。
 搭乗口に到着すると、白河親娘が飛行機を見つめながら窓ガラスのギリギリまで歩み寄った。スマホで撮影している。祐介によれば飛行機が好きらしい。
 チケットは真由美が手配したが、最新のハイスペックな飛行機だ。明智も国民的アイドルがテレビCMで宣伝しているのは見たことがあったが、何度か、クラスJに乗ってそのスペックに驚いた。全てのシートにモニターや電源があり、環境性能が高い。
 搭乗口で待っていると、優先搭乗が始まった。白河親娘を追いかけるように機内へと入る。

 明智は笑顔の客室乗務員に出迎えを受けながら、中央一列目のシート右側G席に到着した。白河玲子が一列目窓側のK席で、玲美が通路を挟んで明智の隣H席だ。全員分の荷物を上の収納スペースに上げたが、あまりの広さに驚いた。
 そして、シートは高級感のある黒のフルレザーだ。シェル型タイプの作りになっているので後ろを気にせず、シートをいくらでも倒せそうだ。
「最近の飛行機はすごいですね」
 左側D席の山本はあからさまな愛想笑いをしてきた。どうも好きになれない女だ。どこか、探偵を見下しているような節がある。信頼されていないということなのか。
 客室乗務員は目線を玲美の高さに合わせたままなにやら話し込んでいる。ミニチュアの飛行機をプレゼントされたようだ。先ほどまではずっと黙り込んでいた玲美も人が変わったような笑顔で話しているではないか……。

 全ての客を乗せた機体が離陸を始める。改めて、エンジン音が小さく感じた。さらに、省エネ設計なのだという。
 ほどなく、朝食がやってきた。国内線で初めて見た機内食だ。鰤の焼き魚など、バランスのとれた和食だ。驚いたことに、先ほどは食欲がないそぶりをしていた山本がしっかりと食べているではないか。
 いや、そういうことか。機内食のために、ラウンジの朝食を食べなかったのだ。この女、抜け目がないなと明智は見方を改めた。
 当初は、明智が一人で白河親娘を札幌まで連れて行くつもりだった。しかし、念には念を入れたいということで、昨夜、急きょ東京にやってきたという。白河親娘との待ち合わせ場所に見知らぬ女がいて明智は度肝を抜かれた。
 相手が逃げないか、心配する気持ちもわからなくはない。依頼人の真由美は仕事に厳しいのがよくわかる。この後、子供の前で一体どんな修羅場が展開されるのだろうか。明智の知ったことではないが……。

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 明智はシートに設置されたボタンを試していたが、マッサージが付いていることに気づいた。心地よいバイブレーションが腰のツボを刺激してくれるようだ。
 白河玲子は、何やらテーブルで手紙のようなものを書いているようだ。その傍らで、玲美はモニターでエンタテイメントを楽しんでいる。明智も玲子の真似をしてテーブルを開いてみた。位置も調整できて、仕事も捗りそうだ。パソコンを開いてメールをチェックした。すると、真由美から、無事に飛行機に乗れたかという確認のメールが届いていた。てっきり、山本が連絡していたと思っていたが、予定通りで問題ないという返信をした。
 1時間半のフライトはあっという間だ。新千歳空港に向けて着陸態勢に入った。

 タイヤが滑走路に接して、少し機体が揺れた。徐々にスピードが落ちていく。無事に到着したようだ。
 明智が再び玲子のスーツケースを運ぶ。トイレに寄りたいということで、一度返したが、玲美を人質にしたこともあり戻ってきて頭を下げ、再び明智にスーツケースを預けてきた。玲美は客室乗務員にプレゼントされた飛行機のミニチュアを握りしめている。白河親娘の後を追って、到着口を出た。
 タクシーを使えば、新千歳空港から円山のレストランまでは80分ちょっとだろう。すぐに出ると早く着きすぎるくらい時間は十分にある。カフェで時間を潰そうか。
「お願いがあるの」
 玲子が立ち止まり、突然、上目遣いで呟いた。
「何でしょうか?」
 明智は不安げな表情の山本と一瞬視線を合わせたが、投げかける。
「私たち、朝が早かったから、シャワーに入れなかったの。だから、空港でお風呂に入りたくて」
 明智が「空港で、お風呂ですか」と返事をすると、山本が顔を顰めて腕を組んだ。緊張が走る。空港の3階に、“新千歳空港温泉”という施設があるのだという。話し合った結果、明智が引き続き荷物を預かり、山本が一緒に入ることを条件に、その要望を受け入れることにした。
 玲子も楽しい食事が待っているとは考えていないのだろう。薄々感じているはずだ。これから修羅場が待っているのだと……。少しでも、心を落ち着けたい気持ちは理解できる。

 明智は一人、カフェに入って、コーヒーをオーダーする。早速メールをチェックすると、真由美から返信があり、〈あらまあ、山本さんが!それは安心ね(笑)〉という返事があった。真由美の差し金と思っていたのに、山本が同行していることを知らなかったということなのか……。
 ソファに背をもたれ、スマートフォンで“新千歳空港温泉”を検索した。「美人の湯」とある。あの親娘にぴったりかもしれない。
 だが、“23時間営業”という珍しい表示を見て、違和感を覚えた。営業時間は午前10時から翌朝9時までだという。
 午前10時から……。明智は背中に冷たいものが走る気がした。現在、腕時計の針は9時20分を指しているではないか。

 すぐに玲子のスマートフォンを鳴らした。いくら待っても出ない。今度は山本に電話をかける。しばらくコールが続いてから、やっと出た。
「山本さん、どこですか? 実は、新千歳空港温泉は、10時からで」
 しばらく間が空いた。
〈あら、意外と早く気づいたのね〉
 山本の口調がこれまでのものとは異なっている。
「一体どういうことですか」
〈あなた、まだわからないの? まんまと騙されたのよ〉
 山本が声をあげて大げさに笑っている。明智の心臓が大きな音を立てていた。
「誰に?」
〈私、依頼人の会社で働く山本さんじゃないわ。玲子の友だちなのよ。木村夫人と話すことなんてないわ。円山での愉快な食事はせいぜいあなたが楽しんで〉
「なんだって……。じゃあ、財産は放棄するのか?」
〈私は、もう、知らない。好きにすれば〉
「ふざけるな!お前な」と叫んだが、すでに通話は切れていた。怒りたいのはこちらなのに、あいつに逆ギレされる筋合いはない。
 明智は怒りで震える右手でスマホをポケットに突っ込むと、玲子のスーツケースを調べた。鍵はかかっていない。ゆっくりと開けた。すぐに封筒を2通見つけた。裏返すと、“名探偵・明智様へ”とある。もう一通は、“木村真由美様へ”とある。さっき、機内で書いていたのはこれだったのか……。慌てて明智宛のものを開いた。

〈騙してごめんなさい。あわよくば財産をと思ったけど、私の娘は祐介さんの子供ではないの。あなたも、奥様も、きっと見抜いていたのでしょう。だから、財産はいらない。“偽者の山本さん”がそそのかすから、女優になろうと思ったけど、この飛行機に乗って気が変わったの。娘が、「優しくて綺麗なあんなCAさんみたいになりたい!」って言ったの……。もうこれ以上、娘に嘘をつき続けるのは無理よ。こんなおもてなしを受けてまで、奥様の前で演じ続けられないわ。祐介さんにお詫びして、取ってくれたホテルに泊まって、明日、ファーストクラスで東京に帰るつもり。お代はちゃんと払います。奥様にお詫びはしたいけど合わせる顔はないの。もし何かあればホテルで。勝手だけど、スーツケースもできたら、フロントにお願いします〉

画像3: 「探偵明智、謎の美人親娘と乗る初めてのファーストクラス」

 明智は、先ほどのソファに腰を落として深いため息をついた。なるほど、偽の山本は味方ではなく敵だったのか。しかも、あいつが玲子を焚きつけたのだ。当初、白河親娘を円山のレストランに連れて行きたいという利害は明智と一致していた。だが、快適すぎた飛行機が計画を狂わせたということか……。だから、山本は電話で、あれほどまでに感情を露わにして怒った。

 いや、この手紙を予め用意して、機内で書いたということは玲子もギリギリまで迷っていたのか。騙し切れるか確信を持てなかったのだろう。しかしだ。よくよく考えてみたら、真由美の余裕が感じられた返信を思い返すと、ある程度そんな事情を察していたのかもしれない。玲美の飛行機好きを把握して、新型機を選ぶことでおもてなしを周到に用意し、人心を意のままに操っていたとしたら、舌を巻くばかりだ。特別な空の旅が人の心を変えてしまうこともわかっていたのだろう。想像の範疇は出ないが、不動産王の椅子を預かる奥方の権謀術数には戦慄を覚える。なぜならもう一度この飛行機のファーストクラスに乗りたいという思いは、おれも同じだからだ――。

Fin.

イラスト:石井あかね

文:八木圭一

北海道十勝出身。大学卒業後、旅行雑誌「じゃらん」の編集者や飲食系のコピーライターなどを経て、2014年に『一千兆円の身代金』で宝島社第12回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞して作家デビュー。同作は翌年、フジテレビでドラマ化。現在、IT企業でパラレルキャリアを歩みながら、小説やエッセイを執筆している。最新刊はグルメミステリーのシリーズ2作目『手がかりは一皿の中に ご当地グルメの誘惑』(集英社)。

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