
西村 愛
2004年からスタートしたブログ「じぶん日記」管理者。47都道府県を踏破し、地域の文化や歴史が大好きなライター。
島根「地理・地名・地図」の謎 (実業之日本社)、わたしのまちが「日本一」事典 (PHP研究所)、ねこねこ日本史でわかる都道府県(実業之日本社)を執筆。 サントリーグルメガイド公式ブロガー、Retty公式トップユーザー、エキサイト公式プラチナブロガー。
竹原市の忠海港から約10分の船旅。「大久野島」へ渡ります。ここは戦中瀬戸内海を守る要塞島であり、かつ、その後建設された毒ガス生産拠点としての設備が戦争遺産として数多く残る島です。現在では「ウサギの島」として全国に名高く、国内外の観光客を魅了しています。
竹原駅から忠海駅経由で大久野島へ!たくさんのウサギが歓迎してくれる自然豊かな島。
竹原町並み保存地区を見終わり竹原駅へ。15分ほどで忠海駅へ到着。さらに海側へ数分歩いたところに忠海港があります。
ここから大久野島へ渡りますよー!
港に到着したらまずは「うさぎの島への玄関口」というストレートな名前の売店で往復フェリーチケットを購入します。さらに、島でウサギにエサをあげて人気者になりたいなという人はここでエサを購入しましょう。島内では買えるところはありません。店内ではウサギにちなんだグッズやお土産も買うことができますよ。
島へ到着したらまずは「休暇村大久野島」への無料送迎バスに乗ります。島内は周囲4.3キロ、歩いて回ることも可能ですがアップダウンもあります。
私は休暇村で電動レンタサイクルを借り、島内一周することにしました。
大久野島へは港からフェリーでたった10分。
豪雨からの、濃い霧に包まれる瀬戸内…。島へ渡るのも一瞬躊躇しましたが、まずは行ってみよう!と。
大久野島へ渡るための渡船が出発するのは「忠海港」。この港に最寄りの駅は「忠海駅」。駅から港までは歩いて5分ほどです。
忠海港ではまずここへ立ち寄って往復フェリーチケットを購入します。
うさぎのエサは島内には売っていませんから、欲しい人はここで買って船に乗り込みましょう。
お手頃な大きさなのはウサギパッケージの豆菓子。そして乗船。少し晴れてきましたよーー。
そして乗船。少し晴れてきましたよーー。
島の港で待つ「休暇村大久野島」の無料バスへ乗車し、まずは休暇村まで行きます。休暇村では自転車を借ります。この日の相棒は 800円2時間で借りられる電動自転車。これで島散策も楽ちんです。
最初は7羽?野生の中でのんびり暮らす1000羽のウサギ。
大久野島へ到着し港へ降りるともうそこにはわらわらわら…とウサギの大群。
ウサギたちも良くわかっていてとにかく近寄ってきます。島内を自転車で周っていても、ひとたび降りると草むらから足もと目がけてウサギが走り寄ってきてくれます。とても慣れていて可愛いです。とは言え餌を持っていないことがわかるとサー…ッと冷めた顔してどこかへ行ってしまう…、非常にゲンキンな子たちでもあります。
このウサギたちはもともと対岸にある忠海小学校で飼っていたもので、増えすぎたという理由で島へ放たれたということなのです。その数たった7羽。
それが増えに増え、現在では1,000羽超えているというからすごいです。ただその後に持ち込まれたものもいるようで、色んな種類(7種類以上)のウサギがぴょんぴょんと跳ね回っています。
ウサギコレクション
「ウサギの島」とも呼ばれる大久野島。
資料などによると700羽が野生に生息しているということですが、実際に話を聞いてみるとすでに1000羽ほどになっているということ。
このウサギたちがここにいるのは、対岸の忠海の小学校で増えすぎた7羽を島に放したことから始まりました。
自転車を停めるとそれ以上進めなくなるくらい、周辺にたくさんのウサギが集まってきます。懐っこくてカワイイです。
ウサギたちは自然の中でたくましく生きていて、山の中を走り回っていました。口元に手をやらない、抱っこしない、道路で餌をあげないなど、いくつかの禁止事項がありますから、それらを守って楽しくウサギと触れ合いたいですね。
戦中に軍用地として使われた島「大久野島」の遺構を巡る。
大久野島には戦争遺産として廃墟となった施設が多く残されています。それらは明治時代の日清・日露戦争の際に瀬戸内海を守るための要塞としての砲台跡と、昭和になってから軍用地として使われた、「毒ガス精製」に関する施設です。この時代、終戦間際まで大久野島は地図から存在を消された島となりました。
昭和4年に毒ガス工場が完成。4年後には本格的に作られ始め、その後さらに施設を拡大しながら量産していきます。世界的に毒ガス兵器は禁止が叫ばれている中、日本は昭和19年まで製造し続けました。
施設を見ると、どれほど大きなタンクで作られていたかがわかります。また何を作っているかも知らされず毒ガス作りに従事していた人々の苦労や、生産終了してからも島に残された毒ガスにより健康被害などが出た状況は、毒ガス資料館で知ることができます。
瀬戸内海の悲しい歴史を物語る施設群は今も鬱蒼と茂った大自然の中に横たわるようにして存在し、当時のことを忘れさせない杭のようにそこに留め置かれています
大久野島の自然の中にひっそりと残された戦争遺跡を見て回ります。
休暇村大久野島をスタートし海沿いの道を時計回りに自転車移動します。
まずは毒ガス貯蔵庫に到着しました。大久野島は軍用地として毒ガスを製造、貯蔵していた島でした。
土砂に埋もれた日本庭園跡。よく見ると見えるのは眼鏡橋風のアーチ。一体どんな姿だったのでしょうか…。
長浦毒ガス貯蔵庫跡。島内では最も大きな貯蔵庫です。
この島ではイペリットガス、ルイサイトガスといった、触れるだけで皮膚がただれる恐ろしい毒ガスが作られていました。しかし静かな瀬戸内の小島に残った遺構はそんなことを微塵も感じさせることがない、自然との交わりを見せています。
完全な廃屋となっており、中への立ち入りは禁止されています。
このように残る建物もあり、また、終戦後旧日本陸軍により隠蔽するため破壊された建物もあります。道中、確実に人工物なのだけれど何なのかわからないものもありました。
研究所跡。
砲台跡。毒ガス生産拠点としての歴史とは別の時代、この島は日清・日露戦争時代の要塞としての役割もありました。
この日は山間部にある砲台は見学不可となっていました。大久野島には島の山頂にある中部砲台跡を囲むように北部、東部、南部と砲台が設置されていて、ほぼ全方位に向けて砲台が建てられました。
のどかな風景が広がる大久野島ですが、過去の歴史を感じ、戦争の痛ましさを実感する場所でもあると言えます。姿形がしっかり残され保存状態が良い分、ありありと現実を突きつけられました。
それらを詳しく見ることが出来るのが「大久野島毒ガス資料館」です。当時の島の様子が資料としてまとめられています。
島滞在は2時間半ほど。周囲4.3キロほどの島なので十分でした。途中山道のアップダウンがありますので、自転車の運転はぜひご安全にー。ちなみに島内は車の通行ができません。徒歩でも十分見て回ることができます。そして大久野島にお別れ。途中雨が降ったところもあったけど、十分満喫しました。
後編はこちら
掲載の内容は記事公開時点のもので、変更される場合があります。
































