縁結びの神として名高い出雲大社をはじめ、神話の息づく場所として知られる島根県・出雲には、豊かな自然と歴史が生んだ美しい手仕事が数多くあります。出雲の人々が守り育んできた手仕事をめぐる旅を、萩原さんがご紹介します。
「つくる喜びが美しさを生む」。5人の青年がゼロからはじめた人気の窯元
出西窯
瀬戸焼や信楽焼などに代表される全国の陶磁器の産地にはたいてい、その土地に古くから根づいた数百年以上の伝統がある。しかし、いまや山陰を代表する窯として知られる「出西(しゅっさい)窯」の歴史はわずか70年ほど。1947(昭和22)年、素人の5名の青年により、いわばゼロからスタートした。
彼らに大きな影響を与えたのは、「民藝の父」柳宗悦。柳は大正の終わりから昭和の初期にかけ、華美な装飾を施した観賞用の作品が主流だった当時の工芸界において、職人の手から生み出される日常の生活道具に美しさを見出して「民藝(民衆的工芸)」と名づけ、「美は生活のなかにある」と語った。
この思想に共鳴した、出西窯の創業メンバーの青年たちは、民藝を軸にした共同体をつくることを夢見たのだ。柳宗悦をはじめ、柳とともに民藝運動を提唱していた陶芸家の河井寛次郎、バーナード・リーチらが、彼らに職人としての心構えから陶芸の技まで指導をおこなった。
職人が一心不乱に作業に打ち込む姿は凛として美しく、それゆえ、安易に仕事場に足を踏み入れたり、声をかけたりするのがはばかられることがある。しかし出西窯では工房の見学が自由で、そこには真剣ながらも放課後の部活動のような活気があり、皆楽しそうに土や釉薬(うわぐすり)に向き合っている。ここに、「喜びこそが美しさを生む」という河井寛次郎の教えが生きている。
出西窯の陶芸の技術面については、バーナード・リーチの影響が大きい。リーチは祖国のイギリスからしばしば来日して山陰に足を運び、出西窯の青年たちを「シュッサイ・ブラザーフッド」と呼んでかわいがり、洋食器に使われる技法などを伝えた。現在の出西窯は、独特の白や飴色、コバルトブルーに彩られた洋食にも合う定番品から、柳宗悦の長男であり日本民藝館の3代目を務めた館長、工業デザイナーの柳宗理のディレクションによるシリーズまで、豊富なラインナップがそろう。
出西窯 | ||
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定休日 | : | 火曜日(祝日は開館)、元日 |
営業時間 | : | 9:30〜18:00 |
web | : | https://www.shussai.jp/ |
住所 | : | 島根県出雲市斐川町出西3368 |
その他 | : | 日曜日は工房での作業はお休み |
女3代で藍染の伝統を紡ぐ
出西織
1890(明治23)年に来日し、島根県松江市に暮らした小説家、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、当時の日本の風景について、「青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる」(小泉八雲『新編 日本の面影』より)と描写している。外国人にとって藍は日本を象徴する色であり、日本人の暮らしに溶け込んでいるように見えたのだろう。
山陰地方ではかつて藍染がさかんだったが、いまではインディゴ(ジーンズなどに使われる濃紺の化学染料)が主流になったこともあり、藍染の工房は数えるほどだ。そのようななか、出雲市にある「出西織」は昔ながらの方法で藍染をおこなっている。
出西織がはじまったのは、1955(昭和30)年のこと。創業者の多々納桂子さんの夫は、出西窯の創業メンバーのひとり、弘光さんだ。「妻となる人には織物をしてほしい」という夫の思いを受け、桂子さんは、染織家であり倉敷の民藝の指導者であった外村吉之介が設立した女学校「倉敷本染手織研究所」で1年間修行した。自宅に戻ったあと、家事の合間に家族のための衣服を織りはじめ、それがいつしか生業となった。
出西織は、すべてにおいて本物志向。自宅の畑での綿の栽培からはじまり、綿を収穫して種を取り除き、糸車で糸を紡いで、自然からとれる原料だけを使った「発酵建て」と呼ばれる方法で藍染をおこなう。そして手織機にかけられ、反物となる。「発酵建て」で染められた布は殺菌や抗菌の作用があるといわれ、風合いもよく、かすかに藍の特有の香りをまとう。
工芸のなかでも染織は特に機械化が進み、このような手間がかかる作業をおこなう工房は希少だ。しかし出西織の伝統は、桂子さんから娘、そして孫へと継承されている。
出西織 多々納工房 | ||
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住所 | : | 島根県出雲市斐川町出西3655 |
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