
西村 愛
2004年からスタートしたブログ「じぶん日記」管理者。47都道府県を踏破し、地域の文化や歴史が大好きなライター。
島根「地理・地名・地図」の謎 (実業之日本社)、わたしのまちが「日本一」事典 (PHP研究所)、ねこねこ日本史でわかる都道府県(実業之日本社)を執筆。 サントリーグルメガイド公式ブロガー、Retty公式トップユーザー、エキサイト公式プラチナブロガー。
巨大産業「宇部興産」に支えられる宇部市。
山口宇部空港へと向かう飛行機が降下し街並みが見えてきた時、最初に目に飛び込んでくるのが一面のコンビナート群です。これぞまさしく私が思い描く宇部の風景。巨大工業地帯へと突っ込んでいくような感覚で、絵にかいたような近代都市の風景。その中でも特に目を引いたのが「興産大橋」でした。
宇部興産は炭鉱からスタートしその後セメント産業へと進出、その後化学やエネルギー、医薬など様々な分野へと発展した大手総合化学メーカーです。
セメントの中間資材「クリンカー」を運ぶための「宇部興産専用道路」は、約32キロにもわたる日本一長い私道。美祢市の石灰石鉱山から海沿いの工業地帯まで、1台で88トン積むことができるトレーラー35台が1日10往復するという、想像がつかないほどのスケールです。空の上から見えた「興産大橋」もその一部で、下を大型船舶が航行できるように、6%もの急こう配になっているのが特徴です。
宇部興産のテクノロジーについては「UBE-i -Plaza(完全予約制)」で学ぶことができます。私たちが普段「宇部興産」という名前を聞くことがなくても、縁の下の力持ちとして日々私たちの暮らしの中で多くの製品の中に宇部興産製品が入り込んでいることを、しっかり学べる施設です。

山口県宇部市の旅へ出発です。いよいよ着陸という時に、巨大な工場群が見えてきました。

埋立地をつなぐように架かる「興産大橋」も見えました。これは宇部の街を支える大手総合化学メーカー「宇部興産」の専用橋です。

企業がこんなに大きな橋を作るとは、一体どういうことなんでしょう…。宇部興産は宇部で発展した炭鉱からスタート、発展し、現在では化学製品や建設資材、セメントなどを供給する企業です。宇部の街の基礎ともなっているという宇部興産を知るため「UBE-i-Plaza」へ行ってみました。
「UBE-i -Plaza」は宇部本社内に開設されている見学施設。まず最初は大きな俯瞰写真でその広さを実感します。写真にある道路が山口県美祢市から続く「宇部興産道路」。セメントの中間資材を運ぶために、宇部興産のためだけに造られた“私道”です。
他にも宇部興産の歴史や製品が展示されています。製造する際に生成される副産物はエネルギーへと変換され、工場内で使われたり売られたりしています。また残留物は化学合成されて他の原料へと生まれ変わるなど、効率的な生産が行われています。

どんなものが作られているかも具体的に見ることができます。例えば医薬。緑内障治療薬や抗アレルギー剤などを製薬会社と共同開発しています。

香水の原料も作られています。においを嗅がせてもらったそれは「スイカ」。爽やかでみずみずしい香りでした。

ナイロン樹脂も製造。テニスラケットの一部にも使われるそうです。

スマートフォンの電池にも!巨大産業すぎて私とは一切交じり合わないだろうと思いきや、なんとここで作られているものは私たちの暮らしの中にすっかり入り込んでいるのですね。
UBE-i-Plazaは完全予約制です。事前の電話予約をすれば誰でも見学できます。
街そのものが緑を有した美術館。野外彫刻・現代アートの街、宇部。
宇部がこれほどまでにアートの街だなんて、知らなかったです。
街のいたるところに溶け込むように置かれた彫刻。宇部が彫刻の街になったのにも、やはり宇部の産業が関係していました。
宇部は1950年代、石炭景気でその経済を潤していました。しかしそれと同時に煤塵問題などの公害も深刻になってきていました。自治体はいち早く公害対策に乗り出し、そのひとつとして街を緑化する「緑と花の運動」が起こります。それらに宇部市民は大いに協力し、種苗を購入するための寄付が集まっていきました。その基金によって購入された、たった一つの彫刻「ファルコネ作“ゆあみする女”」の像が、宇部市を彫刻の街にした始まりです。
1961年には「宇部市野外彫刻展」が開催され、それ以降2年に1度、芸術性の高い彫刻の祭典が開催されることとなりました。現在も「UBEビエンナーレ」と名称を変え開催されており、世界中から応募出品がなされるなど、高いレベルを保っています。50年以上も前に彫刻展を始めたことも驚きですが、“アートを街づくりに生かす”という、当時としては非常に前衛的な発想があったことに驚かされました。
彫刻というものがこれほどまでに自由な感性と創造力を持ったものなのかという発見がありました。そして市民とアートの距離感が近いということにも驚きを覚えました。
緑とアートに彩られた街、そのすぐ向こうには宇部興産の工場群が…。色んな顔が一度に見られるというのも宇部の面白さです。
宇部市内には約200体もの野外彫刻があり、さながら街そのものが美術館のようです。こちらは宇部新川駅前のもの。

彫刻にはそれぞれプレートが設置されていて作品名や作者、受賞歴などもその場でわかります。散策しながら気軽に楽しむことができます。

市内に点在する彫刻を自転車で美術鑑賞してみました。固まって展示されていたり、幹線道路沿いにあったりするのでわかりやすく、徒歩で見て回ることも可能です。

今回のコースは真締(まじめ)川沿い。1キロくらい走っただけでもいくつもの彫刻があります。

川沿いは遊歩道として小さな公園、ベンチなどが整備されています。緑も多く気持ちがいい景色です。

途中、川沿いには「山口大学医学部」がありました。宇部市は市の規模に対する病院や医師の数が多い街としても有名。山大医学部は前身の医学専門学校として戦中に創設されており、歴史がある名門医学部です。

こちらも彫刻!?真締川沿いで最初に見つけたのは空にまっすぐと伸びる作品。2005年発表「空を行く2005」。

すぐ近くに次の彫刻、2005年現代日本彫刻展にて宇部市賞を受賞した「メリッサの部屋」が。一言に彫刻、と言っても表現の幅は広く、解釈は自由です。

こちらもすぐ近くにあった彫刻「UMIE(湖へ)」。材質はアルミニウムで虹色に。

人工的な素材に「虹」という自然界の色が着色され、さらにそれを自然石が支えている。自然と人工という相対するものがひとつの作品になるという、私たちの生きる世界の縮図なのかなと解釈しました。

なんでもない歩道の脇や交差点の近くに置いてあるのが美術品という宇部の街…。2003年発表「鼓動」。重たく硬そうな石がつるつるに磨かれていました。

穴から覗いてみたり触ってみたり、五感で楽しめる作品が身近にあります。

リアルなワンコは「大首Ⅲ」。黒光りする犬は遠くからでも存在感があります。

近くで見るととても大きく、見上げることになります。この作品はモチーフがある分、誰もが親しみやすい作品かもしれません。

そのまま市内中心部を自転車でふらりと走ると、タイムスリップしたかのような石垣の路地に出ました。

普通よりも少し淡い色の煉瓦壁。これを「桃色煉瓦」と呼ぶそうです。

坂を上がると宇部興産を創業した渡辺祐策の生家「松厳園」がありました。街を1個作れるくらいの資産を稼いだというのに、家はとても上品でそれほど大きくはありません。渡辺は、私財を自身や会社だけのために使うのではなく街づくりや社会づくりに使い、みんなで幸せになる「共存同栄」という考え方を唱えました。

宇部のお土産を食べにお邪魔しました。「虎月堂 南浜店」、老舗和洋菓子店です。このお店で働くチーフマネージャーの坂田 桃子さんに会いにきました。

宇部産米粉を使って作ったお菓子「宇部サブレ」。もなかの皮にサブレ生地。高級発酵バターの風味が豊かでサクサクです。お土産としてもかさばらなくて軽く、荷物にならず渡しやすいのもポイントです。

坂田さんは一度県外に出て改めて宇部の良さに気づき、地元に戻って家業の虎月堂を継ぐ傍ら、自らの主催で地元をPRするイベントなどを計画しています。楽しみながら関わった人たちみんながそれぞれの分野に羽ばたいてくれたら、と語る坂田さんの目指すところも、「共存同栄」の精神につながるのかもしれません。
宇部の成長と渡辺祐策の功績を建築に表現。建築家・村野藤吾作「宇部市渡辺翁記念会館」。
宇部興産の創始者である渡辺祐策氏の偉業と功績を称え造られた「宇部市渡辺翁記念会館」を観に行きました。ここは現役の音楽ホールで、国の重要文化財に指定されています。
渡辺祐策は「沖ノ山炭鉱組合」を創業した人です。しかし炭鉱経営に留まることなく、限りある石炭を超える産業として、未来の子供たちにも仕事が残せるようにと工業への転換を唱えました。それらの経営で得た莫大な利益を町のために使い、生活インフラや学校や病院などを整備。企業と地域社会との「共存同栄」という精神を醸成し、今の宇部市の礎を作った人物です。
その祐策が昭和9年に亡くなった際に、彼の功績を称えようと公会堂建設計画が持ち上がり、建築設計者として建築家の村野藤吾が推薦されました。村野藤吾はこの「西村愛のゴーゴートリップ」内広島の連載の中でも紹介した「世界平和記念聖堂」や、東京・日生劇場、箱根プリンスホテルなどを手掛けた建築家です。村野は宇部の産業の昔、今(建築時)、未来を意匠として詰め込み、この記念会館に表現しました。宇部の時代の変遷をデザインに凝縮し、それを誰もが見ることが出来る殿堂として宇部新川駅からわずか数分の地に残した、残せたというのは、宇部の奇跡とも言えます。
その他宇部市には「宇部市文化会館」、「ヒストリア宇部=旧宇部銀行(山口銀行)」、「宇部興産ビル」など村野藤吾の作品が数多く残されており、知る人ぞ知る、宇部の魅力の一つであると言えるでしょう。

かつての宇部は、産業が大きく躍進すると共に起こった大気汚染が深刻になりつつありました。そこで市は、対策を講じるとともに、市街地の緑化を進めていきました。

その精神が受け継がれ、今でも花と緑がたくさん植えられた自然豊かな街の風景を作り出しています。

宇部の街が野外彫刻を展示するアートの街になったのも、緑化が進められていく上で花の種を買うために市民の募金が寄せられ、その中から彫刻を購入したことから始まったものでした。つまり宇部という街は産業という礎があり、その上で自然とアートという広がりをみせているのです。

現在の宇部の発展になくてはならなかった「宇部興産株式会社」。その創設者・渡辺祐策の功績を称えるために作られた「宇部市渡辺翁記念会館」は名建築家・村野藤吾の作品です。
湾曲を使い、その曲線を建物全体に施したダイナミックな建築です。

会館前の公園内には渡辺祐策の銅像があります。この銅像は市民の寄付で建てられたもの。炭鉱経営で大成功を収めていたにも関わらず、石炭には埋蔵量に限界があるとして産業の改革を唱え工業分野への変革を行い、現在の宇部興産の基礎を築き上げた人です。

まず外観。左右に3本ずつ並んだ塔とその中央に置かれた記念碑は、渡辺が関わった7つの会社を表しています。

建物へと進むと、会館のカーブに沿って玄関ポーチも湾曲していることがわかります。中のロビーホールも同じようにカーブしていきます。

正面入り口左右にはレリーフがありました。左側には炭鉱時代の鉱夫が、右側には工場で働く人達が描かれています。渡辺の「有限の鉱業から無限の工業へ」という言葉を表現しており、新たな事への挑戦や柔軟な発想と変革を行うという企業理念を表しています。

かつて下駄ばきの時代には、大理石造りのロビーで下駄の音を響かせないため、この入り口から一度地下へ降りて、屋内履きに履き替え、まるで炭鉱の坑内から地上へと上がるように会館内部ロビーへと入っていったとか…。町のストーリーを取り入れていることが垣間見えます。

玄関扉前にある照明も村野藤吾が手掛けたもの。鷲やドット、斜め十字などがデザインされています。

この鷲、ドット、十字の模様は階段で使われている照明にも似たデザインが使われています。

ロビーの柱は一種独特です。大理石の円柱と天井をつなぐ部分はきのこの笠のように広がり、グラデーションがつけられています。

これは海底炭田を表しているという説があるとのこと。つまり、私たちが海の底から海面を見上げている視点なのですね。

2階への階段天井にはバーベルのような形の明かり取り。建物中央が長く、端になるほど天井幅と共に短くなっており、空間を広く見せる造りとなっています。
2階ロビー。1階よりも深い色合いになり全く異なる印象を受けます。

ホール内。舞台の淵にもカーブが掛かっています。
約1,300席。音響もとても良いそうです。

ロビー壁面にあった大理石を組み合わせ造られた「未来の宇部」。村野藤吾が考えたこれからの街の姿。直線の幾何学的なデザインがモダンです。炭鉱の時代から工業の時代、そして未来の宇部へと、時代と共に成長する宇部を表した建物でした。

記念会館前に植えられているのは「メタセコイア」の木。メタセコイアは長い年月をかけて炭化し、宇部の石炭となった木なのです。ここに植えられていることにとても意味があって象徴的です。
後編はこちら
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