ニューヨークへの勇気のつばさ<後編>
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ニューヨークへの勇気のつばさ<後編>

2019.08.20

家族が突然障がいを抱えることになるとその先の不安はもしかすると当事者と同じくらい大きいかもしれない。

高校生の時、お母さまがご病気で車いす生活に入り、そばでずっとお母さまを支えてきた岸田奈美さん。
足が不自由になり、人生を諦めていたお母さまを救ったのは娘の奈美さんの「お母さんを喜ばせたい」という想いだった。その想いは「旅」に繋がり、初めて車いすで沖縄旅をして以来、韓国、タイ、ミャンマー、ハワイと様々な国を旅行し、今回は13時間のフライトを経てニューヨークへ。

母娘の新たなチャレンジを見ていると、旅には「生きていて良かった」と思わせる力があるのではないかと感じられる。

前編(岸田ひろ実さんの記事)

文:岸田奈美

私の選択で、母が車いすユーザーに

私が高校2年生の時、母が大動脈解離という病気で倒れました。母は意識不明のまま病院の処置室に運ばれ、医師が私に「とても危険な状態です。このまま手術をすれば、8割の確率で手術中に大動脈が破裂して、亡くなります。手術をしなければ、数時間後に必ず亡くなりますが、一時的に意識を回復させてお母さんと話すことはできます」と説明してくれました。

私は、早くに父親を亡くしていました。一緒に住んでいた弟には重度の知的障がい(ダウン症)があり、祖母は高齢ということもあって、決断を迫られたのが私です。
その時は、とにかく母の命が助かってほしいという一心で、手術をしてもらうようにお願いしました。そして、母は奇跡的に一命を取り留めましたが、下半身麻痺、つまりおへそから下の感覚を無くしてしまうという後遺症が残りました。それでも私は、母が生きていてくれただけで嬉しかったんです。意識が回復した母も「一生車いす生活なのは不安だけど、死ななくて良かった」と笑っていました。それが母の強がりだと気づいたのは、一年後でした。

母に、死んでもいいよと言った日

長いリハビリ入院を繰り返していた母を連れて、街へ出かけた時のことです。母の車いすを押しながら歩くと、たくさんの問題にぶつかりました。歩いていた時は気にもとめなかった2、3段の段差が私たちの行く手を阻みます。行きつけの服屋さん、憧れていたレストランは目の前にあるのに、車いすのままでは入ることができませんでした。デパートに入れば、人混みの中、エレベーターを探して歩き回りました。たくさんの人をかき分けながら、何度もごめんなさい、と周りに言い続けました。

二人ともヘトヘトになって、やっとカフェに入ることができた時、母がついに泣いて私に言いました。「奈美ちゃんにはずっと言えなかったけど、もう生きているのが辛い。自分で歩けない私に、母として子どもにしてあげられることは何も無い。もう死にたい」と。ショックでした。だって、私が「生きてほしい」と思って選んだ手術という選択肢が、母に「死にたい」と思わせるほど、追い詰めていたのですから。私も涙を流しながら「わかった。そんなに死にたいなら、死んでもいい。どれだけママが辛いか、私はわかっているから」と言いました。でも、心の内では、どうか生きていてほしいと願っていた私の口をついて出たのは「でも、もう少しだけ私に時間をちょうだい。ママに、生きていて良かったと思ってもらえるようにするから」という言葉でした。

歩けていた頃のように、沖縄へ旅したい

大それたことを言ってしまってから、大慌てです。母を笑顔にさせるために、何ができるのかを考え始めました。これが後に、私と母が働いている株式会社ミライロの創業ストーリーへと繋がるのですが、実はその前に、親子の諦めを覆してくれた“旅”の存在がありました。ある日、母がぽつりと「沖縄へ行きたい」と言いました。沖縄は、父が生きていて、母が歩けていた頃に、家族でよく訪れた場所でした。

でも、取り寄せた旅行パンフレットには、車いすのままでは泊まれそうにない部屋の紹介や、運転免許を持っていない私には不要なレンタカー付のプランばかり。不安だった飛行機に乗れるのかどうかなんて、もちろん書いていなくて、気が滅入るばかりでした。「介護が必要な人向けのプラン」もあったのですが、母は身の回りのことは一人でできますし、なんとなく、家族以外の介護者の同行や、大がかりな介護用車両を借りることは、気が引けました。
私たちのわがままですが、障がい者になったことを改めて思い知らされるよりも、親子二人だけで、昔みたいに旅をしてみたいと思ったのです。

母の「沖縄に行きたい」という夢を叶えてあげたいと思いました。

母の「沖縄に行きたい」という夢を叶えてあげたいと思いました。

気がつけば、旅をしていた

大学生になった私は、もらったばかりのアルバイト代を握りしめて、旅行会社のカウンターへ駆け込みました。せきを切ったように、母とのことを話すと、女性の店員さんが身を乗り出すようにして、私の話を聞いてくれました。店員さんがパンフレットを何冊も照らし合わせて、あちこちに電話をしながら「レンタカーはキャンセルして、貸切タクシーに変更しましょう」「広くて、段差のないお部屋がありました。こちらはどうでしょう」と次々に提案してくれたのです。航空会社への連絡方法や車いすの預け方も教えてくださり、私の不安をよそに、旅行の準備はどんどん進んでいきました。

地上係員さんやCAさんの誘導で、国内線もなんなく搭乗でき、沖縄の那覇空港に到着すると、うちなーぐち(沖縄弁)のタクシーの運転手さんが「待ってたよぉ、車いすはトランクに乗せましょうね〜」と迎えてくれました。ホテルに到着するまでに「車いすのまま近づきやすいビーチがあるから、そこで写真撮りましょうね〜」と、寄り道もしてくれました。車窓から入り込んでくる夏の風を感じ、流れていく青い海と空を見ながら「入院していた頃は、夢にも思わなかった、沖縄への旅が叶ったんだ」と実感し、母と大喜びしました。

母が車いす生活になってから初めて行った沖縄旅行。諦めを覆す夢のような旅でした。

母が車いす生活になってから初めて行った沖縄旅行。諦めを覆す夢のような旅でした。

父から受け継いだ、家族のエンターテイナー精神

私には、大雑把で、飽きっぽいという弱みがあります。自分のためにコツコツと努力をすることが、どうしても苦手でした。旅が、私のためだけのものなら、旅行会社に足を運んだり、バリアフリーなルートを調べたりといった努力は諦めていたと思います。でも、自分のためではなく、大切な誰かのためとなれば、頑張れます。人生を諦めていた母を喜ばせたい、驚かせたいという原動力があれば、そのための努力は惜しまないし、熱意を持ってその思いを伝えることができます。
そして、幸運なことに、周りの人が私たちの旅を後押ししてくれました。そう言えば、亡くなった父も、私と同じ性格の持ち主でした。母を喜ばせるためなら、初めて行った土地で迷いながらお気に入りのお土産を手に入れてきたし、毎月のようにサプライズを仕掛けていました。父から受け継いだ、私の誇りです。旅をきっかけに、母とは少しずつ、歩けていた頃と同じような希望が滲む会話が増えていきました。

旅での小さな成功体験が、親子の自信になる

大切な人と行く旅だからこそ、不安も生まれます。「母を元気づけるために旅行を計画したのに、がっかりさせてしまったらどうしよう」というネガティブな考えが、いつも頭をよぎります。でも、この不安を解消するには“慣れ”しかないと最近気づきました。例えば、国内旅行で食事をする場所を見つける時。最初は車いすで入れるお店を探すのに苦労していましたが、今は気になるお店の名前を検索して、地図のストリートビュー機能で写真を見てみたり、お店のバリアフリー情報がわかるアプリケーションで調べてみたり、それでもわからなければ電話をしてみるなど、ずいぶんスムーズになりました。

今回訪れたニューヨークへの旅では、最大の不安は長時間の飛行機滞在と、慣れない土地での移動でした。でも、飛行機も、韓国やタイなど比較的近距離の海外旅行の経験があったので、なんとなく母の過ごし方のイメージがついていました。飛行機の中に多目的トイレがあること、クッションを借りられること、度々搭乗していたJALのCAさんの気配りが心強いことを知っていましたから。病院を退院して、いきなり14時間のフライトでニューヨーク!だったら、不安で不安で、とても行けなかったと思います。沖縄、韓国、タイ、ミャンマー、ハワイ……と、小さな成功体験を少しずつ積み重ねていたのが、良かったのだと思います。そうした成功体験は、親子の自信にもなりました。

2018年平昌オリンピック・パラリンピックにて。沖縄旅行の成功体験が、旅好き母娘にしてくれました。

2018年平昌オリンピック・パラリンピックにて。沖縄旅行の成功体験が、旅好き母娘にしてくれました。

沖縄からさらに足を延ばし、ハワイへ。ハワイはバリアフリー設備が整っていて旅行しやすい環境でした。

沖縄からさらに足を延ばし、ハワイへ。ハワイはバリアフリー設備が整っていて旅行しやすい環境でした。

今回は母娘で人生最長の13時間フライトに挑戦。

今回は母娘で人生最長の13時間フライトに挑戦。

CAさんや地上係員などスタッフの方にサポートいただき、長時間のフライトも安心して楽しむことができました。

CAさんや地上係員などスタッフの方にサポートいただき、長時間のフライトも安心して楽しむことができました。

郷に従うのが、おもしろい

日本にいると、障がいのある人に対して、なんとなく気を遣ったり、守ったりしなければならない、という意識を感じます。もちろんありがたいことですが、たまに「そこまでしなくても良いのにな」と申し訳なさを感じます。母と海外へ行くと、常識を覆される気づきがあるのが、本当におもしろいですね。ニューヨークでは、私たちが入り口や玄関に近づくと、たとえドアの近くにいなくても、私たちのためにドアを開けて待ってくれる人がとても多かったです。店員さんだからかな、私たちが車いすだからかな、と思っていると、そうではなくて、みんながみんなに、別け隔てなく開けていました。特別扱いではなく、皆と同じ対応、というのが嬉しかったです。

フレンドリーにドアを開けて待ってくれました

フレンドリーにドアを開けて待ってくれました

住人の方に聞くと、それがアメリカではマナーだから、レディーファーストだから、自動ドアがめずらしいから、と教えてもらえました。そう言えば、母とミャンマーを訪れた時は、10人以上の托鉢僧の子どもたちが母の後をぞろぞろとついてきたことがありました。物乞いかな、と思っていると通訳の人が「この国では、車いすはまだ珍しいんです。見たことのない乗り物に乗っている人は、とにかく偉い人だと思って、ものめずらしくてついてきたみたいです」と説明してくれ、その考え方があったか!と笑ってしまったことを思い出しました。旅先で出会う人や文化に触れることで、考え方や、諦めに繋がっていた思い込みが変わる瞬間は、忘れられませんね。

親子の“行きたい”から、誰かの“行ってみたい”へ

飛行機に続いてもう一つの不安が、慣れない土地での移動でした。ニューヨークの地下鉄は、エレベーターがほとんど動いていないと知っていたので、どうやって移動しようかと。実はこれ、ジョン・F・ケネディ国際空港に到着するまで、見当がついていなかったんです。いざ到着してみて、周りの人の見よう見まねで、アメリカのタクシー配車アプリを使ってみました。そうすると、なんと、車いす対応車両を呼び出せる機能があったんです。本当に来てくれるのかドキドキしましたが、ドライバーさんが、慣れた手つきで乗車を手伝ってくれました。私たちはほとんど英語を話せないのですが、カタコトの英語で説明すると、「オーケー、オーケー!ノープロブレム!」と快諾してくれました。このアプリが感動するほど便利で、どこにいても車いす対応の車両は5分以内で到着しましたし、対応も丁寧で、何より運転手さんたちの個性あふれるキャラクターが愉快でした。

街中でもアメリカの配車アプリを使用して車いす対応のタクシーを呼びました。短い移動には移乗せずに済むので便利です。

街中でもアメリカの配車アプリを使用して車いす対応のタクシーを呼びました。短い移動には移乗せずに済むので便利です。

日本に帰ってきて、WEBで検索してみても、このアプリで車いす対応車両を簡単に呼び出せる、ということはあまり知られていませんでした。すごく勿体ないことですよね。母のFacebookでこのことを書くと、多くの車いすユーザーから、驚いた、や、感動した、といったコメントが届きました。これまでは母と私の行きたいところへ足を伸ばしていましたが、これからは、不安を抱えている誰かが「行ってみたい」ところに、親子で「行ってみる」ことも旅のモチベーションにしようと、母と一緒に決めました。私たちの旅の記録が、誰かの諦めを覆す、旅のきっかけになれば、こんなにも嬉しいことはないと思ったのです。

ロックフェラーからの眺めで知る、This is Me

ニューヨークで訪れた、一番のお気に入りの場所は、ロックフェラー・センターのトップ・オブ・ザ・ロック展望台です。70階の高さまで上がるのですが、エレベーターの天井には音楽に合わせてプロジェクションマッピングが投影され、それ自体がエンターテイメントになっていました。エレベーターはバリアフリー設備のイメージが強かったので、これだけでもまずワクワクしました。エレベーターを降りると、ニューヨークの街並みが360°広がり、迫力満点の絶景です。ずっと眺めていられました。でも、目をこらしてみると、老朽化した建物や、工事中の橋が多く目立ちます。決して、洗練されたハイテクな建造物ばかりではないのに、それら一つ一つが、ニューヨークの街を成していました。路地も一つ違えば、行き交う人々の国籍も違うし、ホームレスの人もいます。豪華な噴水もあれば、汚水の水溜りもあります。美しいものばかりではないのに、その数えきれない“違い”が、自由の街・ニューヨークをきらめかせている、とさえ思いました。

飛行機で、母と同じミュージカル映画を観ました。グレイテスト・ショーマンの「This is Me」という歌がとにかく良かった、と感想を言い合ったことを思い出しました。「私には勇気がある、傷だらけだけど」「私のような人間にも居場所はあるはずなんだ」「これが私なのよ」というメッセージを力強く歌い上げる曲です。苦しかったことも、辛かったことも、私たち親子には数え切れないほどあったけれど、父から受け継いだ愛が、親子の人生を覆す旅に連れていってくれた、と今なら思えます。

ロックフェラー・センターから眺めるニューヨーク

ロックフェラー・センターから眺めるニューヨーク

ニューヨークセントラルパークにて

ニューヨークセントラルパークにて

岸田奈美

1991年神戸生まれ。母・岸田ひろ実が下半身麻痺になったことがきっかけで、母のために福祉とビジネスを学ぶ。関西学院大学在学中に、垣内俊哉、民野剛郎と出会い、株式会社ミライロの創業メンバーとして参画。営業、デザイナー、研修講師などを幅広く経験した後、広報部長に就任、現事業推進室配属。企業の広報担当者や学生などに広報・ブランディングのセミナーも実施。自身の原体験を元に新聞コラム・エッセイ・小説の執筆を行い、受賞歴多数。母との共著に「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」(致知出版社)

掲載の内容は記事公開時点のもので、変更される場合があります。

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