
植野広生(うえの・こうせい) win-do.us代表/文筆家
食の雑誌「dancyu」元編集長。執筆、講演を始め、企業・自治体のアドバイザーなど、食を軸に幅広く活動している。BSフジ「日本一ふつうでおいしい植野食堂」に出演中。「情熱大陸」「プロフェッショナル 仕事の流儀」「アナザースカイ」などにも出演。
「パンダがいなくなってから観光客が減ってしまってね……」
アドベンチャーワールドのパンダが中国に返還されてから約半年、南紀白浜空港で乗ったタクシーの運転手は嘆いた。
観光の目玉が無くなったのは大きいだろう。でも、南紀白浜には美しい海がある。うまい魚がある。そしてなにより「長久酒場(ちょうきゅうさかば)」がある。


久々に長久酒場を訪れるために羽田から南紀白浜に向かった。
午後1時に空港に到着、まずは昼食をどうするか。
近くには魚介料理の店が点在しているが、夜のことを考えて魚は我慢する。
空港から車で10分程度の場所に西日本最大級の海鮮マーケット「とれとれ市場」があって、甘鯛やホウボウや伊勢海老や靴海老やアカイカやウツボなど美味しそうな魚介がずらりと並んでいたり水槽にいたりして、おろして刺身にしてもらったり隣接したBBQスペースで焼いて食べることもできる。できるのだが、ここも我慢する。
人気のイタリアン「ペスカトーレ」でピザを食べるか、とれとれ市場近くの「丸田屋」で豚骨醤油の和歌山ラーメンをすするか、あるいは地元の人が通う食堂「喜楽」で刺身定食を横目に鍋焼きうどんで暖まるか……。
悩んだ挙句、天気も良かったので、とれとれ市場でめはり寿司と梅干しを買って、白良浜(しららはま)に向かうことにする。



めはり寿司は和歌山南部の郷土料理で、大きなおにぎりを塩漬けの高菜で包んだもの。そして梅干しといえば、白浜町からも近い田辺市やみなべ町の名産だ。かつて山間の梅農家を訪ねたときに地元のお年寄りが言っていた。
「この村は梅のおかげで続いてきました。だから私らは梅のために生きているんです」
そんな人々の思いが詰まった、大切につくられた梅干しは真っ当に酸っぱくて、味が深い。
白良浜の岩場に腰掛けて、白い砂と紺青の海、澄み切った空を眺めながら、梅干しをのせてめはり寿司を食べる。「目を張るように口を開ける」「目を見張るほどにおいしい」といったことが由来と言われるのが納得できた。思い切り口を開いてかぶりつくと、梅干しの酸味と相まって、目を見張るほどにうまい。高菜の軽やかな塩気、梅干しの強い塩味、そして潮風の香り。白と青のコントラストがくっきりした景色も含め、実に気持ちいい。


白良浜でしばらくぼーっと過ごした後、円月島(えんげつとう)まで足を伸ばしてみる。海に浮かんだ岩の真ん中に穴が空いていて、輪郭がメガネのような形をいていることから眼鏡岩とも称されるのだが、天気が良ければこの穴から遠く徳島の山並みが見える(見えた)。さらに運が良ければ、沈む夕陽がこの穴から輝く奇跡のような風景に出会えるという。
海沿いの美しい風景を眺めながらのんびり散策した後は、温泉で体と心をほぐす。
白浜温泉は「日本書紀」にも記述があり1,300年の歴史を有する日本三古泉のひとつとも言われる名湯で、日帰り入浴可能な施設が点在している。
さあ、準備は整った。いざ、長久酒場へ。

予約は午後5時だが、少し早めに向かう。白良浜の夕陽を見るためだ。夏場は海水浴客で賑わうこの浜は、白砂と海の青さのコントラストが名物なのだが、さらに美しいのは夕陽だ。冬場は太陽が南寄りになるので海に沈むところは見にくいが、夏場には水平線の真ん中に美しく輝き、落ちる。
この夕陽を見てから店に入るのが長久酒場の楽しみのひとつでもあるのだ(夏場は早い時間に店に入り、夕陽に見送られて帰路に着く)。



海沿いの道にポツンと佇む黒塗りの一軒。明かりが灯った看板に「大衆酒場 長久」の文字が浮かぶ。ちょっと入りにくいような凛とした構えは一瞬身が引き締まる雰囲気だが、中に入ると穏やかな空気が流れている。分厚い一枚板を組み合わせたカウンターには焼き台が置かれ、目の前の厨房で主人・小森豊之さんが黙々と仕事をしている。



手元の品書きには、マグロ、サザエ、アオリイカなどの刺身、クジラ、バラ、ミノ、タン、ウツボ、イノシシなどの網焼き、おでん、さんま寿司やしらす丼などのご飯もの、さらにメニューの裏側に貼られた付箋や壁にかかった黒板にもその日のおすすめが書いてある。亀の手やカエル焼きなどの珍しい品もさりげなく混じる。
決して品数が多いわけではないが、この地の魚介の豊富さが十分伝わるし、食べてみたいという欲求を掻き立てる品が適度に並んでいる。この選択肢の適度な心地良さがこの酒場の素晴らしさのひとつでもある。
「おばあちゃんが始めたものをただ続けているだけですよ」
と、小森さんは笑うのだが。
長久酒場は昭和35年に開店した。その頃はまだ知られていなかった日本酒「長久」のアンテナショップとして、小森さんの祖母が始めたという。地元の人たちが気軽に立ち寄れる“大衆酒場”として始まったのだが、酒場の達人、太田和彦さんが「日本三代酒場」のひとつに挙げ、全国各地から呑ん兵衛が訪れ、通うようになっている。
「地元以外の人や外国人のお客さんも増えましたけど、時代とともにお客さんが変わるのは当たり前。うちはやっていることも同じだし、何も変わらないですよ」
小森さんは、淡々としている。
店が開くと、すっと入ってきて、「生。ミノとタンね。あと、さんま寿司もちょうだい」とメニューも見ずに頼んで常連客がいるかと思えば、「予約した○○です」と恐る恐る入ってきてメニューをじっくり眺めている観光客もいる。いろいろな客がいるけれど、淡々と穏やかな雰囲気は変わらない。



さて、何を頼もうか。
ビールをコップに注ぎながら少し考え、本日のおすすめからヒラメの刺身、カツオのたたき、網焼きのイノシシとうつぼを注文する。
ヒラメは程よく身が落ち着いていて、歯に絡むような妖艶な食感と旨味が静かに広がる。白身魚は獲れたてのこりこりした食感を喜ぶ人も多いが、特に大きめの白身は少し寝かせて落ち着かせた方が食感も味わいも深くなる(といった蘊蓄めいたことを酒場で口にするのは無粋の極みなので、もちろん心の中でつぶやくだけ)。
カツオのたたきは皮目の香ばしさを感じながら、身の強い味わいがくくっと押し寄せる。うまいなぁ。酒が進むなぁ。長久をぬる燗でください。



そして、この酒場の名物であり、僕も大好きなうつぼ。一口大に切られたものを目の前の焼き台の網にのせて自分で焼く。まずは身を下にしてピンクを帯びた身が白くなり軽く焼き目がつくまでじっくり焼く。裏返して皮目が香ばしくなるまでまたじっくり焼いたら、熱いうちに砂糖醤油につけてぱくり。皮目の香ばしさと身の上品で淡白な旨味、皮と身の間のねっとりとしたコラーゲンがふわりと口の中に広がる。砂糖醤油の甘辛甘味がそれらの味わいをさらに引き立てる。こんな小さな一切れなのに、幸せな美味しさが爆発する。違和感なくすーっと染み渡るおだやかな味わいの長久もこの幸福感を増幅させる。ああ、たまらん。
うつぼは“海のギャング”と呼ばれるように獰猛なやつなのだが、その身はあっさりと上品。ただコラーゲンたっぷりで濃厚な味わいがあり、とてもうまい。日常的に食べるのは和歌山と高知くらいで、高知ではたたきや唐揚げが一般的なのだが、この辺りではすき焼きにすることも多く、だから焼き物もすき焼きの味付けのように醤油と砂糖で食べるようだ。
実にうまい。やはりここに来てよかった。


と思ったら、その後に食べたイノシシがものすごかった。
皿に盛られて出てきた瞬間に「美しい!」と心の中で叫ぶくらい、身の赤みと脂の白みがきれいだった。焼くといい香りが漂い、口に入れると軽やかな味わいなのに旨味が深い。小森さんの塩加減も絶妙で塩味を感じさせるのではなく、塩によってイノシシの味をしっかり引き出している。
「うまいですね!」と驚いていると「そこらへんの山で獲れたものです。木の実とかいいもの食べて育ったんでしょうね」と小森さん。
南紀白浜は海が名物だが、山も近い。海山の豊かな幸をつまみに酒を呑めるのだから贅沢だ。それも当たり前のように淡々と出しているところが素晴らしい。



改めて実感した。長久酒場はいい酒場だ。
いい酒場とは、加減がいいということだろう。
この大衆酒場は雰囲気も品書きも味わいも、実に加減がいい。
何かが突出しているわけではなく、さりげなくすべてがちょうどいい。
そして変わらない。
小森さんは「同じことを続けているだけ」というが、“変えない覚悟”がいい酒場をつくっている。
きっとこの先も変わらずいい酒場であるはずだ。
と、感慨にひたりながら、甘ったるさがないきりりとしただしのおでんで盃を重ね、握り寿司のようなフレッシュな味わいのさんま寿司をつまみにまたお代わりしたのでありました。
さて、次は、夕陽に見送られるような時季に訪れよう。
ちなみに、冒頭でアドベンチャーワールドからパンダがいなくなったことに触れたが、パンダ以外にもいろいろな動物などがいるのだ。特にペンギンがすごい。身長130cmに達する皇帝ペンギンと次いで大きい王様ペンギンが一緒にいるのは日本でここだけ(他にもいろいろな種類のペンギンがいる)。2025年には繁殖が難しいと言われている皇帝ペンギンの赤ちゃんも誕生している。
次回はペンギンを見てから長久酒場に行こう!
※この記事の内容は2025年12月時点のものです。
長久酒場
| 住所 | : | 和歌山県西牟婁郡白浜町3079-6 |
|---|---|---|
| 電話 | : | 0739-42-2486 |
| 営業時間 | : | 16:00〜22:00 |
| 定休日 | : | 木曜 |
| web | : | 大衆酒場 長久酒場 公式サイト |
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